2005年01月11日

「救命救急24時」は瀕死です

 本日放送が始まったドラマ「救命救急24時」、かなりやばいです。今回で3シリーズ目となる人気作なのですが、今までがオーソドックスな医療ドラマであったのに対し、今作ではいきなり大地震が起きて東京が壊滅してます。突然のSF化であり、まさに危険球であります。
 昨年は新潟で地震があり、来週は阪神大震災から10年というタイミングです。タイムリーなネタなのは確かですが、ドラマに持ってくるにはややあざとい気がします。「ブラック・ジャック」は地震を含むエピソードの放送を自粛したというのに、何か納得がいきません。
 問題なのは、今後の展開です。これほどの地震となると、来週いきなり復興していて別の話、と言うわけにはいきません。1クールを通して、描いていくテーマになる訳ですが、それって面白いのか?ってことです。
 過去のシリーズでは、このドラマの魅力は、様々な事情を抱えた患者たちと、医者との関わりによるところが大きかったのです。ところが、今回はこんな災害が起こってしまったわけですから、来る患者来る患者みんな被災者と言うことになりますし、人数も多くなりすぎるのではないでしょうか。今日見た感じですと、なんか政府関係の人も絡んできそうですし、どうも大風呂敷広げすぎではないでしょうか。私は従来通り、ある名医のささやかな活躍を見たいのですが…。
 なぜこんなものを、シリーズの続編と位置づけたのか、正直理解に苦しみます。
posted by Dr.K at 23:30| Comment(2) | TrackBack(0) | 馬鹿は黙ってろ! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月10日

ハウルの動く城 その5

 「ハウルの動く城」には映画の魅力がぎっしり詰まっている。カルシファーやヒンらが子供たちを喜ばせ、ハウルが女性を引きつける、その程度で終わる作品ではないのである。

 批評というジャンルは、文章で発表されるが故に、ストーリー(シナリオ)の辻褄やメッセージ性に目がいきがちである。しかし、そうなってしまうと、このハウルにとっては非常に分が悪いことになる。ハウルのシナリオは非常にぼんやりしていて、積み残しの多い結末で観客を煙に巻くからである。
 例えば、作中の「戦争」である。この作品の世界では、戦争が行われている。通常の兵隊や兵器もあるようだが、魔法使いもまた戦争に駆り出されており、ハウルは各国からの誘いを拒んでいるらしい。
 しかし、それでいてハウルは戦場へ単機飛び立つ。面白いのがこの戦場描写で、そこには、無数の兵器と不気味な魔法生物がいるばかりで、兵隊ら人間が全く出てこない。何より、ハウル自身が、到底善良なキャラクターには見えない姿に変貌してしまう。「戦場には人間はいない」…どちらかというとのどかなトーンで進んできた物語の中で、画面から強烈なメッセージを感じる瞬間だ。ハウルはどちらの国の側であろうと関係なく、戦争そのものを憎んでいる。作中にセリフもあるが、それはむしろ従であり、戦場描写こそがそのことを語っていたと言えるだろう。
映像でメッセージを語る…映画通なら誰でも経験済みのことだと思うが、最近のTV番組などでは特に失われた技術なので今後が心配だ。
 さて、そのような戦争を経て、一体何が解決したのかというと、実は何も解決していないのである。そもそもこの戦争、どことどこが戦ったのか、何をめぐって争っていたのかさえ定かでない。サリマンの一言で終結してしまう戦争など、いつ再開されるかわかったものではない。空を飛ぶ仕様にグレードアップした城で、ソフィーたちと幸せに暮らすハウル、というラストシーンは詭弁にすぎない。戦争はこれからもある。そしてハウルは追われ続けるのだろう。
 ハウルの結末には批判が多い。特に、カブの呪いが解かれる以降の急展開についてだ。しかし、上記の理由から、私はこの映画を単なるハッピーエンドとは見ないし、むしろファンタジーの癖にリアルすぎる結末に見えたのである。
 考えてみてほしい。私たちは、今世界のどこかで起こっている戦争が、なぜ起こったか知っているのだろうか。そして、戦争を終わらせるのはいつだって「ナウシカ」のような救世主ではなく、サリマンのような為政者だった。人は世界を救うことはできないが、家族を守り、幸せにすることができる。これは諦念の中から、宮崎監督が見つけ出した等身大のメッセージなのではないか。理想主義のファンタジー映画が、とうとうここまで来たのだ。

 宮崎監督が、次の作品で主人公にどんな希望を与えるつもりなのか、私は楽しみで仕方がない。
「君にはややこしい呪いがかかっているね」
ハウルにそう言われそうではあるが。

 (ネタバレ部分は反転してお読み下さい)

ビジュアル 10
整合性   4
女子供度  7
個人的総合 8
posted by Dr.K at 11:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画一刀両断 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月08日

自主制作アニメ続報

Cpicxcc5
 アニメアニメと言ってますが、実際には動画の素材ははほとんどありません。静止画をプレミア(デジタル編集ソフト)で動かしてそれっぽく見せていくわけです。
 今回制作の物は、予告編をイメージした90秒ほどの小品ですが、たったそれだけでも、飽きさせない画面を作っていくのは手がかかります。学生の課題と同時上映をめざし、現在90%ほどの仕上がりとなっています。

 一応、ストーリー性のある本編も作ろうかと思っているのですが、そんなことを始めたら時間も素材も足りません。せめて絵を描いてくれる人がいればなぁ。
posted by Dr.K at 20:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 講師の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月05日

ハウルの動く城 その4

 それは、娯楽作品の常識であった明確な結末をあえて伏せ、観客に考える余地を残す、ということであった。
 「ナウシカ」と「もののけ姫」との結末の違いは、まさにこの点に起因する。私自身の好みは実は「ナウシカ」の方であり、その結末に爽快なカタルシスが感じられたのに対し、「もののけ姫」の結末には徒労感さえつきまとう。しかし、私はこの変化を否定しようとは思わないのだ。
 「ナウシカ」では、辺境で自然と共に生きる「風の谷」の人々が善として描かれている。一方、人が住むことが出来る残り少ない土地を侵略してまわるのがトルメキア軍だ。ここで翻って現実の世界を見てみれば、我々のまわりはトルメキア軍だらけな訳であり、今さら風の谷のような原始農村社会に立ち返ろうという人などほとんどいないではないか。
 つまり、「ナウシカ」には現実を否定し、声高に理想を掲げる青臭い一面があるのだ。
 それに対し、「もののけ姫」は「ナウシカ」と同様の問題を提起しつつも、エボシの側にも理があることを見せ、(きれい事では済まない)現実と折り合いをつけながら歴史を紡いできた人々へのフォローを忘れない。

 これは明らかに進化であり深化だ。現実の世界で結論の出せない問題に対し、クリエイターが作中で安易に結論を下してしまうのは、危険でもあるし、おこがましいことだ。そう言う意味で、宮崎監督この態度は、非常に謙虚で真摯と言えるのではないか。それにしても、結論の明確でない作品…並みの映画であればファンを失ってしまうであろう危険な賭だ。だが、問題提起と世界観で客が充分に呼べる宮崎アニメだからこそこのような芸当が出来るのである。

 そしていよいよ話はハウルへと戻る。

続く
posted by Dr.K at 16:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画一刀両断 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月04日

本気と書いてマジと読む

G6x22id_  この項は無謀にも私が尊敬する作家先生のblogにトラックバックかましています。緊張します。文章がいつもよりおかしかったら、多分そのせいです、えぇ。

 私が学生時代に絶大なる影響を受け、卒論にも引用したのが、右の「サルでも描けるマンガ教室」です。その著者(の片方)である竹熊健太郎氏が、いつの間にやらblogを開設されていたのですね。
 竹熊氏と言えば、そのフットワークの軽さにはいつも驚かされっぱなしです。本業は編集者らしいのですが、雑誌でマンガを論じていたかと思えば、エヴァンゲリオンの本を書いていたり、桜玉吉の「しあわせのかたち」に出演したり(おっとこれは仕事じゃないか)…
 それにしても、現在の仕事が多摩美での講師とは驚きました。しかも、blog「たけくまメモ」によれば、学生にマンガを描かせ、その課題採点に苦しんでいるとのこと。
 いやぁ、その気持ち分かるなぁ。竹熊先生の何分の一かの規模しかありませんが、私も学生が作った課題(ゲーム企画書や小説やゲームプログラムなどですが)の採点に毎年追われます。
 「貴様…それでも美大生かッ」
には手を取り合って酒でも飲みに行きたくなりますわ。私も
 「テメエラ、それでもゲーム科かッ」
という叫びを年に何回飲み込んでいるやら見当もつきません。

 講師になってみて分かったことなのですが、
結局、奴らのほとんどは本気じゃないんですよ。授業や課題なんて単位さえ取れればいい。多摩美ほどの学校でもその状況に大差はないようです。嘗められているのは学校という制度そのものであり、竹熊先生が嘗められている訳ではない、と私は思います。

 楽しいマンガとかアニメとか、授業中バンバン流してサービスしてるでしょう? 日本一おもしろおかしい講義ですよ?

というくだりに到っては涙なしには読めません。私も楽しいゲームとかアニメとか授業中見せたりしますが、その場が「面白かった」で終わってしまうことの多いこと。
 断言しますが、娯楽はナメられています。見たり読んだりする時と同じように、面白おかしくテキトーな態度で臨めば創作物は出来る、と思っている奴が多すぎる。楽しませるために苦労する、なんてことは想像もつかない…という人が多いのではないでしょうか。
 竹熊先生にご注進申し上げますが、単位は簡単にあげないことです。「あの先生は単位がとれない」という評判になれば、多少は骨のある学生が集まろうというものです。ちなみに、私はしがない専門学校の講師なのでそれすらも出来ませんが。

posted by Dr.K at 16:14| Comment(6) | TrackBack(0) | 馬鹿は黙ってろ! | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月03日

ハウルの動く城 その3

 ファンの間ではなかば神格化されている「ナウシカ」だが、

 壮大な原作をまとめるために四苦八苦した宮崎は、「宗教画めいたラストにしか出来なかった」点などから60点という厳しい自己採点を下している。
「宮崎駿・高畑勲作品解説」『宮崎駿、高畑勲とスタジオジブリのアニメーションたち』キネマ旬報'95


という意外な記述を見つけることが出来る。

【感動は宗教であり洗脳である】
 多くのファンが、「ナウシカ」のエンディングに感動した。人は、感動したものに対しては無批判である。その意味で、何かの熱狂的なファンに対して「信者」と呼ぶことは、的を射た言葉遣いと言わねばなるまい。感動は時として宗教であり洗脳であるからだ。
 このことを敏感に察知した評論家が大塚英志だ。若い人には、「多重人格探偵サイコ」の原作者、と言った方が通りがいいかも知れない。大塚は、宇宙戦艦ヤマトの特攻と、オームの群れの前に立ちはだかるナウシカの行動との間に、本質的な差はない、と看破する。
 そして、

 「ヤマト」は、その軍国主義的なアイテムに飾られているが故、その危うさを〈現実〉に照合できる仕掛けになっていた。したがって、ファンは批判的にこれに関わる余地があった。
 「ナウシカ」は「一途に人を思うこと」という宮崎の主張が、「共同体の為に犠牲になること」に拡大され、しかも、アニメーションとしての〈出来〉の完璧さ故に、受け手がこれを批判的に享受することができない仕掛けになっている。より危険なのは後者だ。
大塚英志『まんがの構造 増補新版』弓立社'88


 と述べる。今時、「お国のために死んでこい」と言われて従う者はどこにもいないだろうが、「ナウシカのように命を捨ててこい」と言われたら呼応する者は確かにいそうだ。オウム真理教がなぜアニメ映画など作ったのか、理由が少し分かった気がする。
 優れた映像作品であればあるほど、その中で一方的な価値観を語ることの危険性は増す。自作が大ヒットするのに比例して、宮崎監督の悩みは深まったのではなかろうか。
 「ゲームもテレビも捨てて自然の中で暮らそう」
監督自身はそう言いたいかも知れないのに、自分の作品こそが子供たちをモニターに貼り付けさせているという矛盾。しかも、フィクションをうまく消化できず、現実と折り合いをつけることが難しい、奇形的な人格の若者がどんどん増えているという事実。
 どうにもならない状況の中で、莫大な金だけが動き、作品を作り続けなければならなくなったとき、宮崎監督はある決断をしたのだと思う。

続く
posted by Dr.K at 16:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画一刀両断 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月02日

ハウルの動く城 その2

 もともと宮崎監督のアニメ映画というのは、お子様が楽しめる娯楽大作という地点からスタートしている。その条件の一つとして、わかりやすいストーリーがあった。
 「カリ城」「ナウシカ」「ラピュタ」「トトロ」「魔女宅」…
これらのスッキリした結末に、疑問をはさむ余地はあまりない。
 ところが、「紅の豚」で対象年齢を上げてみてから、この状況が変わってくる。「もののけ姫」「千と千尋」そして「ハウル」。どこかひっかかる結末が目立つのだ。過去の賞賛された締め方を、なぜ監督は捨てたのだろうか。
 それを探る鍵は、宮崎監督が引退を表明した作品、「もののけ姫」の中にある。

 宮崎監督のアニメは、一つ一つがオリジナルを目指し、続編や二番煎じに頼らないのが基本路線である。ところが、「もののけ姫」は公開当初から既視感がつきまとう作品だった。その物語構造が、あまりにも「ナウシカ」に似ていたのである。
 シシ神の森を「腐海」とするならば、サンはナウシカであり、エボシ御前はクシャナであろう。何より、大海瀟や巨神兵らしきビジュアルまで出てくるではないか。
 しかし、「ナウシカ」と「もののけ姫」の間で、宮崎監督の中の何かが大きく変わってしまったのだ。ナウシカは多くの人に見守られて「青き衣の救世主」となったが、サンが災いを鎮めても賞賛するものは誰もいなかったし、サンもまた人里に降りることはなかったのだ。
 一方、トルメキア軍を指揮したクシャナは否定さるべき侵略者でしかなかったが、エボシ御前は森の破壊者でありながら民には支持される為政者である。
 つまり、「ナウシカ」はタイトルの通りナウシカを賞賛するための物語であるが、「もののけ姫」はそうではないということだ。サンと同じぐらい、エボシの側にも理があることが、この物語を不透明なものにしているのである。
 実は、宮崎監督は「ナウシカ」の仕上がりに満足していなかったのである。なぜなら…

続く
posted by Dr.K at 10:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画一刀両断 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年01月01日

ハウルの動く城 その1

 大宣伝中で説明の要もないこの映画、観た人は多いようだが、評価は二分されている。
 楽しめた人も多い一方で、
「昔の宮崎アニメの方が良かった」
「あの終わり方は何なんだ」
という意見もあるようだ。

 私はというと、宮崎監督の(毎度ながら)すばらしい想像力の産物を、大スクリーンで浴びられただけで充分モトはとれた、というチョロ〜い観客なので文句はないのだが、楽しめなかった人の気持ちも少し分かる気がする。
 でも、「昔の方が良かった」なんてのは実に失礼な言いぐさであって、そういう人こそ作品の進化に取り残されているのではないか。あの終わり方は失敗ではなくて、実はわざとやっているのではないか。
 そのへんを、これまでの宮崎作品をたどって検証してみようと思う。

続く
posted by Dr.K at 20:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画一刀両断 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ブログ始めました

 新年あけましておめでとうございます。
今年から気分も新たにブログってやつを始めてみます。
 こじゃれたデザインが気に入りませんが、だんだんカスタマイズできるようになるとのことなので、しばらくはこのビジュアルでガマンです。

 下は、ただいま制作中のアニメムービーの1場面です。
これ、昔の卒業生の絵なんですが、現在音信不通なので、もし心当たりの方が見てましたら、連絡いただきたいと思っております。
 素材は結構なクオリティなのでこうご期待!
1fp6atuo
posted by Dr.K at 15:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 講師の独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする