その試みは正しかった。確かに、これは続きが気になるはずだ。
結論から言うと、前編はどこか納得できない居心地の悪い出来だった。
そもそも「こんなのデスノートじゃない」という原作ファンの感想は、どこから出てくるのか。実写では再現しきれないキャラの容姿か。終わり際にオリジナル展開を見せるストーリーか。いやそうじゃない、最大の違いは物語と読者・視聴者との距離感だ。
思えば、マンガ「デスノート」は極端に登場人物に寄った作品だった。ライトが、自分の思考の中身を次々にさらけ出し、その結果、紙面は文字だらけとなったが、読者とライトとの距離はぐっと狭まっていったのだ。
ノートに名前を書いただけで死者が出まくる酷薄なまでの生命の軽さ、しかもそのことに良心の呵責を感じないのがライトという人物の特別さであり、一方、目標の達成のためには私情を捨て冷徹になれるLもまた特別な人格だ。これら本来なら共感を得られないタイプの人物を主役に据えつつ、強引に読者との共感を取り結んでいくところに、この物語の見所があるのだと思う。
ところが、映画の「デスノート」はそうではなかった。主役はマンガと同様ライトであり、起こる事が同じであっても、その描写はどこか遠くからの異様なまでに醒めた客観的なものだったのである。
映画というのは、多かれ少なかれ、監督や脚本家の色が出る。原作があるからといって、その通りに作られることはむしろ希である。ところが、この映画からは、作り手のいかなる主張も聞こえては来ない。マンガの時には、ライトによる新しい世界の実現などとんでもないとわかっていても、彼の危機にはハラハラしてしまうという、作者による強引なまでの移入の力を感じた。ところが映画では、その演出に登場人物への共感がおよそ感じられない。結末のない前編だから、という理由を考慮してもこれは異様である。
おそらく、作り手は原作「デスノート」そのものに共感していないのだろう。だからこそ、前編の最後で徹底してライトを貶めたのだ。マンガでの正義と映画での正義はおそらく別の所にある。であれば、結末をどうするつもりなのか、実に見物ではないか。
それにしても、マンガを読んでない人にとっては、前編でのミサミサの悪目立ちっぷりは、さっぱり意味不明なんだろうなぁ。
キャラ再現度 8
あらすじ再現度 7
テーマ再現度 2
個人的総合 6