内閣は、コンテンツ専門調査会を設置し、これらの産業の可能性について調べているらしい。そのメンバーの一人が、東大大学院の浜野教授。
知は動く コンテンツ力 日本の戦略
(前略)ゲームについては、ぼくは異論がある。アニメや漫画は感動をもたらすけれど、ゲームは、お金だけ持っていって、子供の時間奪ってますね。その人生にプラスアルファがない。宮崎さんとか他のアニメ見て、人生変わったという人はいると思います。心ふるえるほどの感動とか、ゲームは若干難しい。ビジネスとしてはいいかもしれないが、恨みをもたれる。かつてのエコノミックアニマルのコンテンツ番みたいにね。敬意も払ってくれない
黙れ、時代を食い物にする部外者め。
この教授、スタンリー・キューブリックの研究などいい仕事もしてるみたいだけど、著書のリストを見ると『表現のビジネス』『極端に短いインターネットの歴史』『メディアの世紀』『デジタル革命の衝撃』『ハイパーメディア・ギャラクシー』と、時代の波に乗ったうさんくさい題名ばかり。そういう評論ももちろん立派な研究業績ではあるが、そこに創作物への愛や敬意があるのかといえば、多分ない。そういう人が、内閣の手先として、不遜にもゲームを文化として下位に格付けしようしている。
こちとらそんなもんを黙って見過ごせるほど従順なオタクじゃないんじゃ、ゴラァ。三浦つとむ「日本語はどういう言語か」(1976)を引用しておくから、百回読んで暗記しろ。
すぐれた作品だけが芸術であるとか、すぐれた作品だけが文学の名に値するとかいう芸術観・文学観ではなく、芸術の中にすぐれたものとくだらないものとがあり、文学の中にすぐれたものとくだらないものとがある、と考えなければならないのです。芸術か否か、文学か否かは、客観的に、その事物自体の性格に基づいてきまっているもので、作品の優劣の価値判断からきまるものではありません。鑑賞の対象となる言語表現なら、小学生の綴方でも、新興宗教の教義でも、青年の生活綴方でも、お涙頂戴の大衆小説でも、紙芝居の説明でも、落語でも、すべて文学の一つとして扱われなければなりません。これらの果している社会的な役割も、やはり文学の社会性として、歴史の中に正しく位置づけられなければなりません。特殊なすぐれた言語表現だけが文学であり、その鑑賞者だけが文学の愛好者であると考える偏狭な態度を捨てなければなりません。
この「文学」のところをゲームなど、他のコンテンツに変えても全然違わない、ということが分かるだろう。アニメの中に感動をもたらすものと時間を奪うだけのものがあり、ゲームの中にも感動をもたらすものと時間を奪うだけのものがあるのだ。その程度も考慮できない人が、コンテンツ政策の中心にいるとは、あいかわらず頼りにならない政府である。
儲かったらちゃんと税金は払うからさ、邪魔な発言は控えて、制作者に任せてくれないかね、全く。
追記
私が三浦つとむのこの本を手にしたのは、大学院の「文章表現論」という講義でのこと。学生は3人くらいしかいなかったが、面白い授業だった。教授が、元新聞記者で、当時からかなりのお歳だったハズなのに血気盛ん。自分のゼミ生をバカにされたら、他の先生につかみかかるような人だった。その先生に言わせると、私の文章はあまりに古すぎるらしい。大学ってのはこういうことを学べるから面白い。