「Facebook」の起業を題材にした映画。日本での公開は2011年だったが、国内でFacebookが流行ったのは翌年になってからなので、当時の観客にはあまりピンとこなかったんじゃないだろうか。今観た方が多分よくわかる。
主人公マーク・ザッカーバーグは、Facebookを作った天才プログラマー。ありきたりな物語だと、彼の偉業を褒め称える方向に持っていくが、この映画はそれをやらないところがユニークだ。天才らしい無神経さで、共感度の低い人物として描かれている。
一方、観客と目線を共有することになるのが、マークの友人であり、共同創業者となるエドゥアルド。マークの無茶苦茶さに引きながらも、彼が不得手とする交渉や資金集めに奔走する。だが、致命的なまでに開発の知識がない。先輩起業家としてショーン・パーカーが現れたとき、マークが開発者同士として刺激を受けたのに対し、エドゥアルドは話の内容が全く分からず、ショーンのいけすかない人柄ばかりが気になってしまう。共同創業者なのに、自分ではFacebookを使う事さえできない。常識に囚われた凡人はベンチャーには要らない、とばかりに彼は追い出されてしまう。
マークは訴訟の場でも一歩も引かず、天才の物言いに双方の弁護士とも困惑の表情を見せる。桁外れの儲けゆえに、和解金を支払っても痛くもかゆくもない。マークがやりこめられることもなく、天才の孤独を匂わせて物語は終わる。
優れたものを創る人が、人格的にも優れているとは限らない。そんなことはわかっている。しかし、映画なのに美化しないところに、非常に骨太なものを感じた。
マーク・ザッカーバーグは実はまだ20代だ。
アップルを創業したスティーブ・ジョブズは、歳をとって味のある偉人になったが、その人生の20代までを題材にしたら、やはり同じような鼻持ちならない若者に描かれたのではないかと予想する。
それだけに、マークの後半生がどうなるのかにも、興味がわいてくる。ジョブズのように新しいものを創り続け、それによって、映画のように何かを失い続けるのだろうか。
専門用語 10
調子ノリ度 9
友情度 2
個人的総合 6
他の方の注目すべき映画評:忍之閻魔帳、拝徳