2006年09月27日

時をかける少女 その3

 「時をかける少女」の優れている点は、キャラクターだけでなく背景もまた雄弁に語ることだと思う。これは、実写映画の世界では常識なのだが、マンガやアニメの世界ではなかなか達成できていないことだ。

 (以下ネタバレ含む)
 スムーズで見やすい映像展開が続く中、私がひっかかったのは、物語終盤、真琴が千昭に会うために走るシーンだった。長回しのカットの間、ハァハァ息を切らし、真琴は延々と走る。唯一の「しつこい」描写だったと言っていい。
 物語の最初では、真琴は商店街の坂道を自転車で駆け下りた。そのスピーディーさと楽さは、そのまま真琴の日常感覚を表している。
 一方、真相と向き合うために、千昭のもとへ走るのには、大きな決断が必要。そういった精神的なハードルの高さを伝えようとした画面が、この走るシーンだったのだと思う。

 3人で仲良く、という日常は続きはしない。真琴は、そのことにどこかで気づいていながら、「時間跳躍」の力を持ってしまったがために、無理矢理それを保とうとした。どうしても理想の歴史ができないのは当然のことだったのだ。
 真琴がその変化を受け入れたとき、力は失われ、キャッチボールのメンバーは5人になった。最後に「やりたいことを見つけた」と真琴は言う。それが何かははっきりとは示されない(千昭の好きな絵を守るために、魔女おばさんと同じキュレーターを志したのだ、という説明もあるが、必ずしもそう見なくていいだろう)が、後ろ向きに日常を守ろうとするのではなく、前向きに未来を志した、それだけで観客へのメッセージは充分だろう。
 学生としての日常は決して戻らない。時は流れ、人間関係は変わる。だが、変わらないものもまたあるハズだ。冒頭からエンディングまで、まるで形が変わった気がしない入道雲は、多分そういうことを伝えようとしているんじゃないだろうか。

現在性   9
普遍性   8
キャラクター性 8
個人的総合 9
posted by Dr.K at 22:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画一刀両断 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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