迷子になったサルーは、施設に保護されるが、その環境は劣悪。オーストラリアに住む裕福な夫婦、ジョンとスーに養子としてひきとられることで、どうにか無事に育つこととなる。観客は、サルーの危険に満ちた足跡を観ているので、ああよかった、という感想が先に立つが、一つ重大な謎が残る。
夫婦はなぜ養子をとったのか。
この夫婦は、サルーを迎えた一年後、さらにマントッシュを養子にする。マントッシュは虐待のトラウマを抱えており、ジョンとスーを大いに困らせる。サルーとマントッシュの仲もまた、うまくはいかない。
単に子供が欲しいのであれば、わざわざインドから、訳ありの子供を預かる必要などない。
(以下に、物語の核心となるネタバレを含む)
物語の終盤、スーは告白する。
スーは実の父に虐待されて育った。幼いスーは、茶色い肌の子供と幸せな生活をする、というイメージを見、これが自分の未来だという確信を得た。それだけなら、天啓か予知かで済まされてしまいそうな話だが、続く言葉は私を驚かせた。
「自分の子供を産んでも世界は良くならない。恵まれない子供を助け育てる方が意義がある。」
スーは、その考えに同意したジョンと結婚し、あえて自分の子供をもうけなかったのだと語る。
想像もしなかった考え方だ。今の日本では、少子化が問題になっており、自分の子供を産むのが正しいこととされている。しかし、途上国などでは人口は増えており、その中に多くの恵まれない子供が含まれている。彼らを助けることには、確かに多大な意義がある。しかし意義があるからといって、人種も国も異なる養子に、我が子として愛情を注げるものだろうか。スーの存在こそが、この実話の最大の奇跡ではないのか。
一方で、この映画はサルーの旅を通じて、血のつながった親子の関係を礼賛しており、温かい気持ちで映画館を後にすることができる。色々な人に観て考えてほしい一本だ。